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柳井川(稲村)・弾正神社

★柳井川(稲村)・弾正神社

稲村は、久万―日野浦―黒藤川 そして土佐へと続く旧久万官道沿いにあり、対岸の立野集落と共に旧柳谷村の入口に当たる集落で、神社はそこからさらに1キロほど内の子に向かう。

柳井川(稲村)・弾正神社

道路沿いに、遊歩道が現れる。

柳井川(稲村)・弾正神社

その遊歩道を進むと、岩から突き出るように建物が現れた。

柳井川(稲村)・弾正神社

「弾正神社」である。

柳井川(稲村)・弾正神社

自然石に守られるように立つ、神社である。

柳井川(稲村)・弾正神社

拝殿内部は施錠しており、ガラス越しに撮影。

柳井川(稲村)・弾正神社

鎌倉正八幡宮」と「弾正神社」を教えてくれたS田さんのお話より

「南北朝(1342年)のころ、桑邑郡千丈原(現在の西条市)の合戦に敗れて、稲村の地に身を隠し、生涯を送ったという、河野(稲葉)弾正は弓の名人として知られ、弓比べの伝説や大蛇退治の伝説が残っています。
その弾正を祀った神社が集落から1キロ程登った岩屋に建っている。神社は、戦いの神として戦前・戦中には近隣からの多くの参拝者で賑わったと言われています。
近年は稲村の村民だけで年2回お祭りが行われているようです。(旧暦2月・8月)
高齢化も進んで、地域の伝統行事を継承するため日々努力しているようです。」

柳井川(稲村)・弾正神社

そしてS田さんに見せて頂いた神社謂れの資料から参考

稲葉弾正(いなばだんじょう)と兵衛の太夫(ひょうえのたゆう
中津稲村の山中に住む稲葉弾正は、実に立派な弓の名人であった。猪も熊も、すべての獣がいっぺんで射殺された。村人たちは、弾正こそ日本一の弓の名人だろうとうわさし合っていた。ところが、西谷の山中に住む兵衛の太夫もまた弓の名人で、村の人たちは、兵衛の太夫こそ、日本一の名人だと自慢していた。この二つの村の人たちが集まると、必ずと言っていいほど、自分の方を日本一だといいはり、ついには大けんかになるという始末だった。稲葉弾正も、兵衛の太夫もそんな人々のうわさなど、まったくきにかけず、毎日山で、弓の腕をみがき、大きな狩りをしては、楽しく暮らしていた。
しかし、あまりに人々の口がうるさいので、いつとはなしに二人とも、相手の男はどんな男だろう。どんなに弓がうまいんだろうかと、たしかめてみたくなった。稲葉弾正は、ある日こっそり山をのぼりはじめて、とうとう西谷の山、笠取山が望める中津明神山(1541メートル)の山頂に立っていた。兵衛の太夫もまた同じ日に、どんどん山に登り、とうとう笠取山(1562メートル)の頂上に立って、はるか明神山を望んだ。二つの村の東西に対する大きな山と山、その頂に立った二人の勇者、向かい合った二人の目からは、はげしい火花がとびかった。どちらが言いだしたともなく、あすの朝、日の出を合図に弓の腕くらべをしようと約束してわかれた。朝が来た。身支度をした二人は、明神山と笠取山の頂上に立って、互いに相手の心臓をねらい合って弓を引きしぼった。美しい、大きい真っ赤な太陽が二人をさした。同時に「ヤッ」という気合が二人の口から発せられ、矢がはなたれた。矢はうなりをあげて、相手の胸をめがけてとんでいった。名人の二人、ねれいがあまりにも正確であったため、日本の矢は、二人の間で、ぶつかり合ってしまった。激しい火花を散らした二本の矢は、そのまま、下を流れる仁淀川へ落ちていった。
 空を仰ぎ、笠取山と明神山のふもとで、かたずをのんで見守っていた村人たちは、思わず、どよめきの声をあげ、二人とも、いずれおとらぬ立派な弓の名人であると、ほめたたえた。それから二本の矢が落ちこんだ渕を矢渕と呼ぶようになったという。矢渕は、落出の部落はずれ、国道33号線沿いの仁淀川にあって、真黒く神秘的な水をたたえた大きな渕である。」

柳井川(稲村)・弾正神社


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